第75式!!僕にとって悟りとは苦行の積み重ねであると言えます!!苦行が九行になることで悟りは開かれる!! – Inishie R plusA – For me, enlightenment can be said to be the accumulation of austerities! ! Enlightenment will be achieved by doing nine penances! !

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こんにちは。Inishie R plusAブログの時空です。今回は「悟りとは苦行の積み重ねである」というテーマについて深堀りしていきたいと思います。

苦行。うーん。苦行と言うと苦しい修行を体にむち打ちながら行うイメージがあるかもしれません。実際、僕の言うところの苦行とは僕自身であれば勉強し続けることであるし、経験を積み重ねることです。

いわゆる宗教で言うところの苦行とは千日回峰行のような既にコレをするという形式のある苦行であると思います。僕は苦行とはそれぞれの人の数だけ種類があってもいいと思うし、人によって苦行の定義は異なると思います。

僕は苦行として行っている、否、普段は苦行と思うどころか楽しくて仕方ない勉強などの修行を苦行と称しています。苦行とは楽しく行って積み重ねることが出来る行いであるはずだし、僕にとっては、勉強も或いは頭を鍛えるのではない筋トレも一種の苦行と言えるのです。

僕はたまに電車に乗って数駅離れたところから自力で歩いて自宅まで帰ってくることがあります。僕は夜中に電車に乗って、何十キロも先の駅から夜通しかけて初めて歩く道をグーグルマップも使わずに帰ってきます。

幸い、歩いている途中で雨が降ってきたことも殆どないし、毎回明け方には自宅のアパートに何とか辿り着けることが出来ます。

僕にとっては夜通し集中して歩いているので、フローの状態を味わえるし、異世界を探索しているような経験であり、ほとんどの道は住宅街を歩くので、最悪、朝まで待って道を聞けば済むし、実際、道を聞いたこともないです。

これが山の頂上から夜通しで、ふもとまで歩いて帰るのであれば、それこそ苦行であるし、僕自身は住宅街を夜通し歩いて自宅まで帰るだけでも普段味わえない高揚感を感じることが出来るのです。

僕は何十キロも歩く中で何度も途中で諦めようと思うことがあるのですが、強い意志によって毎回諦めることもなく、最後には自宅まで到着することが出来ます。

夜通し歩いているときには、神秘的な力を感じて、不思議なことに、いつもは近くのコンビニまで歩いていくのも面倒なのに、何十キロ歩いても不思議と全然疲れません。

僕も夜通し歩くのは、計画を立てて、この日に行うと決めているわけではなく、ふと突然、今日だな、と思ったときに電車に乗って遠くの駅で降りて、夜通し歩き続けることをしているのです。

最近では、夜通し歩く苦行は全然行っていませんが、つい1年前までは普通に夜通し歩く苦行を行っていました。僕は前回の苦行で夜通し歩くのも今日で終わりだな、という鈍い痛みのような直感を感じたのを覚えています。

その後、1年ほど夜歩く苦行は行っておらず、最近でも今日だな、という勘のようなものは全然感じません。僕にとっては、良い修行なので、また歩く機会があれば良いのですが、今度また歩くという可能性は今のところ全然ないのが現状です。

良い子のみんなは真似しないようにお願いします。

さて、僕は苦行と言うと苦しい修行であると言えるので、苦行という言い方はあまり好きではありません。実際、苦行は九行と書いて9つの行いと書き改めたいと僕は思っています。

苦行と言っても僕は毎日の勉強でも夜歩く修行でも行っている時は集中状態のゾーンに入っており、それだからこそ価値があるのだと思います。

この二つの九行で、一方、つまり勉強は積み上げていける性質のものであり、もう一方、つまり夜歩く修行は積み上げていく性質のものでは無いことが分かります。

実際、僕の悟りの定義は、苦行を積み重ねるということであり、勉強と夜歩くことの、どちらが大切かといえば、積み上げていける前者の勉強のほうが重要と言えます。

苦行が九行であれば、苦行の種類は九つあることが分かります。僕は今のところ三〇代半ばで二つの苦行を編み出しました。残りの苦行は七つあるわけですが、人生を通して、残りの七つの苦行を知ることが僕の天命であると言えます。

僕は仏教やその他の宗教について、あまり詳しくありません。僕が不勉強であるということも理由の一つですが、宗教の初心者としての僕から見れば、宗教とは膨大な知識に裏付けられており、僕は宗教を学ぶという意味では人生を全てかけても時間が足りないのではないかと思うからです。

宗教を得る場合に非日常的な体験も効果的ですが、日常の一つ一つの習慣を丁寧にこなしていくという点も重要であると言えます。

夜歩くのは普段行うことのない非日常体験ですが、その非日常体験と同じくらい勉強のような日常体験も重要だと僕は考えるのです。

僕は「自分の」神様を信じているし、他の宗教家たちも「自分の」神様を信じているはずです。それは結局のところ同じ神様を愛していたとしても、それぞれの人の神様のイメージは全く同じではなく、それぞれ異なると考えるのが普通でしょう。

その上で僕は自分の可能性を信じているし、神様と考え方が同じだと、自分の望みは叶い続けると思っています。そのためには自分を磨き続ける必要があり、当記事のテーマである「悟りとは九行の積み重ねである」ということになるのです。

僕は勉強は僕がこの世界から消えてなくなるまで続けるでしょうが、夜歩く修行はもうすることはないかもしれません。それは夜歩く修行が価値を無くしたのではなく、修行として十分体得したので、これ以上はする必要はないということです。

みなさんも自分自身を鍛えるために、それぞれの方法があると思います。人の数だけ人生があり、人の数だけ可能性はあります。僕は苦行とは可能性であり、まだ見ぬ自分に会いに行くことだと思います。

それこそ遊んで暮らす人生よりランクの高い、九行により経験を積み重ねた人生であると言えます。僕の話は受け入れられる人もいるし、受け入れられない人もいるのが普通だと思います。その上で偶然にも当記事を読んでくれた読者さんがどのように考えるか、僕は興味があります。

そろそろ二〇〇〇文字も超えたのでここまでにします。また僕にも偶然としての機会があれば宗教的な物の見方に関して書き記せればいいです。僕の独善的な話をここまで聞いてくれた読者の皆さんに感謝します。その上で皆さんも宗教や神様に関して考えてみる機会があれば僕も幸いです。皆さんの幸せを願ってクローズとします。ではでは。

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